サマリタン

映画、本、毛糸もろもろ。

安野モヨコ特集、行く末。

というわけで、大田出版のCONTINUE30号を購入。
安野モヨコ氏へのインタビューがなかなか面白かった。
この人のプロ意識の高さには恐れ入る。
インタビューでも触れられているが、
近年、誰でも知っている漫画家は減ったことには同感。
かつてのドラゴンボールキャプテン翼に代表されるように、
世代全体に共有されるマンガは滅多に出てこないだろう。
それは、マンガに限ったことではなく、
エンターテイメント産業全体で言われていることだ。
好みの細分化、消費を通じた自己実現等々、
どれも新しい概念ではないが、それらが実際に起こっている。

ここ数年、マンガやアニメを愛好することに対して
これまでの「暗い」「モテナイ」「犯罪」といった負のイメージだけでなく、
「アキバ」「ジャパニメーション」「OTAKU」という新しい正のキーワードが加わり、
マンガやアニメに対する視線は、複雑で、過剰な解釈を含むようになった。
コミックスを累計でどれだけ売れるものを描けるか、だけで評価は出来ないし、
一方で、やたらと意味深で難解ぶってみても、
一部には受けても、所詮少数である。
それでは出版社としては、商売にはならないのだから、
雑誌の種類が増えるばかりで、同時に休刊も増えてしまう。
OTAKUは産業化し始めると同時に、袋小路に入り込む。

多様な解釈と同時に大量消費にも陳腐化しない
芯の強さを持つマンガ・アニメは少ない。
そういった意味で、宮崎駿アニメやエヴァンゲリオンは、強さがあると思う。
上記二つのアニメは、
物語の背景となる緻密で厚みのある世界観を感じさせながら、
個性ある類型化された、矛盾に満ちた人物が、
その世界で、現実世界と同様に生きていることを感じさせる。
エヴァは多くの注釈を意図的に許していることで、
見る側は、物語への参与が義務付けられているし、
宮崎駿アニメは、強いメッセージ性と、鮮やかにビジュアル化された世界が
見る者を惹きつけ、現実世界を見る視線に働きかけてくる力がある。

オタクは、マンガ・アニメを物語性だけで評価しているのではない。
描かれたものと描かれなかったものを見分け、
物語に対する、自分自身の解釈と、他者の解釈とのずれや一致を
意識化し、表現することを、楽しんでいる。

安野モヨコは、そういう解釈を許したくないのではないか。
ゆるい物語構造ばかりでは、ばらばらに食いちぎられ
結局何も残らない。
だからこそ、隙間を作りつつも、
解体と再構築による散逸が起こらない物語を求めているではないか。
安野は、いつか古典になるかもしれない。

今日の一言。
「癒しグッズが邪魔で座れねーよ」に一票。