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サマリタン

映画、本、毛糸もろもろ。

教育を語る前に。

今日は、こんなことしている場合ではないのに
教育関係の講演を聞いてきた。

小さな会場に約30名ほどの聴衆が集まり、
午後1時半から5時まで、みっちり議論が交わされた。
私は特に発言はしなかったのだが、
他の参加者のほとんどが、学校の教師だったせいか、
発言内容が、基本的に「現場の視点」に立ったものであった。
その内容に踏み込む以前に、気になった、というか
いらいらしたことがある。

まず、現場を絶対視していること。
子どもたちと直接関わる立場としての教師の経験はとても重要である。
だが、「自分たちが一番苦労している」と言わんばかりの話しぶりに
時にうんざりするのである。
まるで自分には全く非がないという態度に苛立ってしまう。
文部科学省教育委員会を責め立てるのは簡単だ。
自分たちで出来ること、出来ないこと、
文部科学省教育委員会にやってもらいたいこと、
などなど、先生方から見て、感じていることを
もっと具体的に示してもらえないだろうか、と思う。
一人ひとりの声を全て反映させることは出来ない。
文部科学省までもが個人的経験に拠った提言をしてしまっては、
混乱を呼ぶだけである。
先生個人の経験と、教育行政一般を安直に結び付けていないか、
と思うのである。

もう一つが、先生は教室では絶対であること、
権力者でもあることを忘れていないか、ということである。
子どもにどんな言葉をかけてきたか、全て覚えている先生はいるのだろうか。
先生にとっては多数のうちの一人であるが、子どもにとってはたった一人の先生である。
一度も誰も傷つけなかった先生など居ないだろう。
学力が足りず、将来の不安を抱えている子どもや
その親にとって、担任の先生は絶対的な権力者である。
自分たちもまた、誰かに対して、理不尽さを押し付けたりしていないか、
という視点をあまり感じられなかったことに、引っかかった。
まあ、これは私の所感であり、
一人ひとりの先生方と話せば、また違ってくるとは思うので、保留付き。

個人的経験ではあるが、私は小学生の頃から鈍足だったせいか、
体育担当の先生からは、好かれたことがない。
小学校1年生のときのマラソン大会で後ろから2番目だったときは、
「あなたは頑張っていない」とクラス全員の前で指摘されたくらいである。
ちなみに、一番最後の子は身体に障害のある子だったので、実質私が一番遅かった。
終盤、全員がもうゴールしているのに、まだ私だけ走っていた。
皆が私が走っているのを見ていた。
私は、それまで自分が足が遅いという自覚がなく、
最後になったとき、どうして良いかわからなかった。
誤魔化したくて、とりあえず笑おうとしていた。
それを「ヘラヘラと、まじめでない」と指差されてしまった。
障害もないのに、あんなに遅いのは真面目に走っていない、ということであった。
先生は、私を吊るし上げることで、クラス全員にまじめさを教えようとしていたが、
私は、足が遅いことは恥ずべきことだと、教えられたような気がした。
そして、先生もまた不完全な人間であり、
失敗もすれば、平気で卑しくも人を傷つけることを、
このとき知った気がする。

教育行政の公共性は、他の公共物と違い、
一過性であり、効果が目に見えにくく、かつ時間がかかることを特徴とする。
おそらく、「正しい教育行政はこれだ」という正解はない。
理想を共有することが大切なのではないだろうか。

今日の一言
20年以上経ったが、私は、今もどこかで、鈍足を恥じている。