サマリタン

映画、本、毛糸もろもろ。

ここを去るとき。

今日二回目の更新。

6月 1日 イブ・サン=ローラン氏(71) 死去

6月 6日 氷室冴子氏(51) 死去

6月11日 水野晴郎氏(76) 死去

特別にファンだったというわけではないが、

お三方の訃報は、とても突然に感じた。

ファッションデザイナー、作家、映画評論家(ときに監督)

それぞれ活躍した分野は異なるが、「何か」を創る人だった。

時間はただ流れているだけではなく、

「時代」という「何か」を積み上げているようである。

「何か」を創る人々と、創られた「何か」を探す人々がいて、

みんな、真っ暗闇の中で、五感だけを頼りに、手探りしているばかり。

そして、人々は少しずつ入れ替わる。

新しく「何か」を創る人々が来る、

それらを受け入れたり、拒む人が現れる。

そして、時代という、モノではない、感じるしかない「何か」が重なって重なって、

年を取る毎に、人は「何か」、

多分、「記憶」や「思い出」と言って良いかもしれないものを、

心に背負うのだ。

それがいくつも積み重なって重い荷物となって、

動けなくなってしまったとき、ここを去る。

新聞の訃報欄に載るような人々は、何かを成した人なのだろう。

けれど、ときに、違った形で、誰かの死が報じられることがある。

先日の秋葉原の事件のように。

やはり、秋葉原は何か変化していたのかもしれない。

突如、ここを去ることを余儀なくされた犠牲者、

及び被害者並びにご遺族の方々にはお悔やみを。

秋葉原に関係する全ての人々が、

今後、「あの時、あの場所にいなければ」思うことを止められないだろう。

それはまた何と恐ろしく寂しいことなのか。

今度、秋葉原に行く機会があったとしたら、

以前と同じように、街を歩くことは出来ないかもしれない。

私の秋葉原はもういなくなってしまった。

もしも、自分でそのときを決めることが出来るなら、

心にたくさんの「何か」を詰め込んで動けなくなったと思ったときに、

最期に全て解き放って、ここを去りたい。

時々、今すぐに、ここから去りたくなることもあるけど、

私にはまだ舫があるようだ。

心の中で何度も飛ぶことを考えたこともあるけれど、

まだ、繋ぎ止められている。

私は、もう眠ることにする。

できることならば、明日の目覚めが、少しでも健やかでありますように。