サマリタン

映画、本、毛糸もろもろ。

梅雨明け。

すっかり夏めいてきた。

先週から、蝉の声が聞こえるようになった。

夏は好きだ。

強い日差しの下を一人っきりで歩いていると、

ゆらゆらと浮遊しているような気分になる。

夜も薄着で十分になって、

何だか身軽になったような気がする。

ぬるい空気に包まれて、

肌と空気の境目が次第に溶けてしまうような、

自分の内側にダイブしているような、

内省的になる季節でもある。

例えば、道端に座り込んだ顔色の悪い女性が居るとする。

緊急事態なのではないか、と思う。

で、何と声をかけたら良いのだろうか。

多分、相当切羽詰っている。

「大丈夫ですか?」

なんて聞くのも野暮である。

私だったら、

「何か私にできることはありますか?」

と声をかけてもらえると助かるし、嬉しい。

私は、大丈夫じゃなくても助けを求められないし、

実際に道に倒れるときは、

多分、大丈夫じゃない、どころじゃないから。

これは、性分なのだろう。

私は妙なサービス精神がある。

それも、強力で、且つ、分かりづらい。

複数の人間が集まると、

何故か、とてもたくさんたくさん、

おしゃべりになる。

もともとおしゃべりなのであるが、

私のおしゃべりは、

他人へのサービスであり、

多分、自分を守るためだ。

誤解されたくないとか、

つまらないと思われたくないとか、

他人から見た私を演じることに一生懸命なのだ。

「他人の期待する私」であり続けようとして、

この場にいることを許されたいと思っているみたいに。

私は、何処に居ても、

自分自身を「闖入者」のように感じている。

場に馴染まない、

本来居るべきでない者だと感じている。

その違和感を自分自身でうやむやにしようとして、

しゃべりたおすのだ。

多分。

だが、

決してつまらないわけでもないし、

嫌でもない。

しわ寄せは後になってから、

一人っきりのときにだけ、

大波になってやってくる。

実はかなり失礼なことを言われても、

その場では気がつかない。

私は「私」を演じることに精一杯で余裕がないからだ。

多分。

「頑張ってください」とか、

「大丈夫ですか?」とか、

「やっぱり、仕事はやりがいですよね」とか、

「凄いですね」とか、

当事者には何てことのない社交辞令や、

本当に何の悪意もない心からの言葉に、

後々足元を掬われてしまう。

何故そんな言葉に傷ついているのかすら、

最初は分からない。

少しずつ、

奥から湧き出るような禍々しい悪意を持った自分が、

自分を斬りつけているだけだと気がつく。

足元から腐っていくような気持ち。

いや、頑張ってない。頑張りたくないし。

全力じゃないと、何も出来ないだけ。

大丈夫なわけない。

やりがいなんて、求めても得られない。

凄いって言われても、

努力の成果がこの有様だ。

後々、些細な言葉に戸惑っていたことに気がついて、

でも、傍から見たらそうなんだろうと、

そう振舞っているのは私自身なのだから、

なのに、

「心の底からそう願っているわけではない私」に

気がつかない他人にイラつく。

でも本当は、

誰かに、ただ、褒められたいだけ、

そうした子どもじみた欲求にかられているだけだ。

頑張り過ぎないで、

後悔しないように、

現状にとらわれないで、

適当に頑張る?

全力で頑張ることの方がよっぽど簡単。

頑張り続けるほどの力も無いくせに。

心の壁をもっと、高く厚く堅くするしかないのだろうか。

あー、ホント、やんなっちゃうなあ。

以上、愚痴でした。