サマリタン

映画、本、毛糸もろもろ。

鈴木邦男×真鍋厚「わたしの中の〈テロリスト〉~絶望の時代を生きるための暴力論~」に行ってきた。

またもや2か月ぶりの更新となってしまった。

今度もまた「テロリストワールド」刊行記念イベントに行ってきた。

6月22日(水)に東京の神保町にある東京堂書店で行われた、

真鍋厚氏と鈴木邦男氏の対談である。

 

6/22(水) 19時~ 『テロリスト・ワールド』(現代書館)刊行記念 鈴木邦男さん×真鍋厚さんトークショー 「わたしの中の〈テロリスト〉~絶望の時代を生きるための暴力論~」 | 東京堂書店 最新情報

 

参加費は500円と手頃ということもあり、

当日に参加を決め、少しだけ古本屋に立ち寄ったりもしてきた。

東京堂書店は数年前に改装してカフェが併設されていたり、

オシャレな店構えになったが、品揃えは充実しており、

すぐ近くの三省堂書店の広さに比べたら小さく感じるかもしれないが、

必ず、何か欲しくなるような魅力的なお店である。

Amazonも便利だが、実際の書店の良さを感じられる良い本屋さんだと思う。

 

さて、今回のトークショーは3回目となる。

4月の津田大介氏、5月には宮台真司氏と続き(私は2回目は行けず)、

今度は、著書も多数あるベテランの評論家である鈴木邦男氏と対談である。

参加者も鈴木氏のファンと思われし方々も多く見かけた。

 

時間は1時間程度と若干短めながら、ライブながらの発言も多く、

知的刺激にあふれたものとなった。

 

私が気になった話題についてまとめてみた。

 

2016年5月のフロリダ州オーランドの銃撃事件に触れて

 犯人は事件中に911に電話をし、自分の行いがテロであることを主張しており、

 テロ=正義、公正を求める暴力行為とすれば、

 個人的な恨みや疎外感を動機とする犯行とするよりも、

 大義のある行動として理解を求めている。

  

 一方で、アメリカ社会には、男性に対して、男性らしさ=マッチョ志向が強くあり、

 その不適合の歪みとしての犯行なのではないかという解釈もある。

 過去の大量殺人や銃乱射事件の多くは男性によるものであり、

 一人前の男性として認められないこと、落ちこぼれたことからくる疎外感や、

 強い鬱積が共通しているのではないか。

 

 2015年のカリフォルニア州サンバーナディーノの事件に比べ、

 犯人の個人的な側面が多く報道されており、

 動機が個人的であると見做されたことで、事件が個人の物語に収束している。

 

 「アメリカの、アメリカ人による、アメリカ人に対するテロ」としての側面があり、

 アメリカ社会での落ちこぼれ(=ヘタレ)からの攻撃でもある。

 

 何故多数の人を殺すのか。

 犯人は、犯行前に過去の銃乱射事件を参照し、

 より「大きな数」を狙っていると思われる。

 犠牲者が多いほど、注目もされる。

 理解されたい、承認されたいという欲求。

 

日本の状況 必要な犠牲はあるのか

 世界史を学ぶということは、洗脳でもある。

 過去の革命や戦争は「必要な犠牲」だったのか?という視点の欠如。

 多数の犠牲者を出した出来事を肯定的に必要だったと認めてしまうことで、

 将来の「大義のための破壊行為、暴力行為」を認めることにつながる。

 

 エコテロリズムの理論もまた、生き物や地球環境を守るために、

 死者もやむなしとする考えがある。

 公民権運動の延長として、動物や自然環境もまた、

 権利を獲得する戦いをしているという考え。

 

SNSと言論の荒廃(日本の場合)

 TwitterFacebookのようなSNSによって誰もが発言出来る技術が根付いてきた。

 しかし、散漫で、ときに傲慢な言葉の暴力もまた溢れている。

 

 いわゆる「ネトウヨ」と言われるような、愛国主義的で、強い言葉が目立つ。

 しかし、「文学」足りえない大量の言葉があるだけで、

 主義主張としてのまとまりはない。

 

 理想とする「すべき行い」「あるべき姿」の中に、

 社会全体、弱者への目線がない。 

 共同体意識、一体感の欠如。

 

 同じ日本人でありながら、自分以外を「異質な他者」とし、

 一方で、理解を求め、認められたいという心理を感じる。

 

 不快な言葉は見ないことも出来るにも関わらず、強い中毒性がある。

 見えない発言者とのやり取りばかりに熱中してしまう。

 

テロリズムと宗教、愛国心

 本来大義のためであれば「殺人」は必要ないこと。 

 愛国心や信仰心はともすれば傲慢になる。

 生まれる国をあらかじめ選べない。

 愛国心は付与されたものを宿命化するもの。

 日本では、宗教の話題になると、日本人にとって都合の良い、

 耳心地の良い話になりやすい。

 過去にあった宗教弾圧やそれによる犠牲を学ぶ必要がある。

 日本人の心理は、個々人では謙虚な態度を示すが、国単位になると傲慢となる。

 

感想

 テロリスト、殺人を犯すものは「普通の人」ではないのだろうか?

 むしろ「普通」と地続きにあるものなのではないか。

 

 テロリストを名乗ろうとも、

 個人的な鬱積が動機であろうとも、

 むやみに他者を殺傷する行為の道徳的な位置づけに差はないのではないか。

 

 何故、個人的な動機で事件を起こしているのではない、と主張したがるのか。

 社会での「敗者」であることを認めたくない心理や、

 社会になじめないこと、希望の仕事に就けないこと、貧しさなど、

 一般的で小さな不幸は、一方で解決も難しく、大きな不幸をもたらすものである。

 弱者の立場に甘んじることへの疲弊があるのではないか。

 

  SNSは、チュニジアを発端としたアラブの春で使われたように、

 一体感を高揚させる力もある一方で、

 言葉で溢れるディスプレイを眺めたときに

 雑踏に淋しさで立ち尽くすような、

 取り残されたような、孤独感に襲われるときがある。

 姿が見えない分だけ、言葉の量が存在感として現れることで、

 認めてもらいたいと望むだけ呟き続けることを強いられてしまう。

 弱者であることで連帯出来るとは限らない。

 不幸が多様であるように、弱者は多様で且つ孤立しているものである。

 SNSは仲間を探そうとすればするほど違いが目に付くものである。

 「私は私」というただそれだけのことがとても難しい。

 

 毎日の生活費のやり繰りや、ギリギリの生活、欲しいものを我慢することの連続、

 身近な人との些細な違いや距離感からくる疎外感、

 「劣っている」「負けている」「永遠に弱者」であると突きつけられる瞬間。

 「もっと苦しんでいる人もいる」ことは分かっていても、

 自分の苦しみは自分だけのものだ。

 誰にも理解されず、孤独を感じることは誰にでもある。

 そこに、マイノリティとしての属性を持っていたり、

 普段より少し強めの拒絶(結婚の終わり、失業など)によって、

 負荷が大きくなる瞬間がある。

 そんなとき、他者への暴力的な衝動が抑えられなくなる人がいるのではないか。

 テロリストをエイリアンだと思っているうちは、

 「わたし(たち)の中のテロリスト」を見つけることは出来ないのではないか。