若人よ、小さな喜びを大きく照らし出せ。
人生には何度分かれ道があるのであろうか。
恐らくいたるところに、無数に、そして永遠に、
選択の繰り返しなのである。
しかし、選択肢とは、突然現れるように見えて、
作り出しているのは自分自身の行いの中間結果であり、
自分自身の可能性、
或いは、自分自身の限界が、
選択肢の有無、
時に、
見えざる選択肢の可視を決定付けるのではないかと思うのである。
昨今の経済的状況において、
「いかなる職業にでも就ける」
と楽観出来るほどの若者は多くはない。
しかし、どのような経済的状況においても、
自分自身の身体的能力と言うものに、
大きな違いは無いはずだ。
就職活動と言うものが、「しゅうかつ」と言われ、
結婚を希望し何がしかの行動を起こすことを、「こんかつ」と言う時代ではある。
動け、と、誰もがたきつけてくる。
どこへ行けば良いかは、教えてはくれない。
それは、自分で決めろ。
何を望むのか、
何を望まないのか、
何が出来るのか、
何が出来ないのか、
何を許せるのか、
何が許せないのか。
誰も答えは出してはくれない。
結局自分でしか分かりえない。
そして、いつ分かるかも分からない。
永遠に答えは出ないかもしれない。
直ぐに納得できるかもしれない。
とかくこの世は、
不確定な事実の積み重ねで構成された、
永久に完成しない、
未完の状況なのである。
金が欲しいのか。
地位が欲しいのか。
時間が欲しいのか。
他人の羨望か、
自分の満足か、
何のために働くのか。
私は私のために働く。
私は諦めが悪く、執念深い。
基本的に気は小さいが、大胆にも野望はあるのだ。
私の主張は、
若い世代からは、ガツガツしていると言われるかもしれない。
暑苦しいかもしれない。
けれど、
私の望みを叶えるのは、
私の意思と努力、そして行動だけなのだ。
生活、暮らすということ、そのために働く。
世間の誰も私を守ってはくれはしない。
罵る者も居る。
けれど、私の出した結果は、
たとえそれが惨めなものであっても、
そして、
輝ける成果であるときも、
すべて、私自身のものとなり、
私の大切なものに費やせる財産となる。
だからこそ、
「やりたいこと」
が見つからない若人に告げる。
キミたちには生きる力はあるか。
父も母も、最早、キミたちを守れない。
しかし、独立する姿を見せることが最大の孝行であり、
親からの自由なのだ。
誰かの望む通りに生きようとするな。
誰かが選択や決定を与えてもらうのを待つな。
どうせ、100年も経てば、
いや、10年も経てば、
今、側にいる人は、ほとんど残っていやしないのだ。
残っているのは自分だけだ。
代わりに、別のどんな人が側にいることになるか。
それもまた、今の自分の行動次第。
人生は長く、一方で短い。
辛く悲しいときは長く、
享楽のときは短い。
だが、
常に、どこかに、戦い、守り、怒り、哀み、そして安寧と歓喜がある。
私は、まだ経験不足の若造かもしれない。
だからこそ、
いかに人生と言うものが、
厳しくとも、
辛くとも、
命を終えることだけは、
まだ許されていないがゆえに、
私は選び、捨て、作り、守るために、
働かなければならない。
仕事には、「やりたいこと」より、
「やらなければならないこと」の方が、
ずっと重要なのだ。
人生の終わりに、結果、何が得られるかは、
終わるまでわからないけれども。
家を一歩出れば、いつも最前線の塹壕に居るように構え、
そして、帰宅するとき、心は帰還兵のように、
無事に終えた一日に感謝するのである。
働きマンは最後まで生き残ることが唯一与えられたコマンドなのだ。
今日の一言。
若いほど、「俺/私、早く死ぬから」と言うが、
人生から解放されるのは、意外と遠い。